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ムラナカ日記

内面への沈潜。

私はなぜブログを始めるのか

人はなぜ、ブログを書くのだろうか。人それぞれに、様々な理由があろう。

 高校時代の友人の場合は、「盆栽という趣味をもっと世の中に広めたい」という理由で盆栽ブログを始めていた。現在彼のブログは読者が順調に増加中とのことであり、ひと月前に彼と話したときには、Googleの検索画面で2ページ目には登場するようになったとのことであった。試しにいま「盆栽ブログ」で検索してみると、なんとトップのページでヒットするようになっているではないか。継続は力なり。彼の姿勢は見習う必要がある。

 さて、ではなぜ私がこのタイミングで、ブログを始めようと思ったのか。これにはグランドキャニオンや日本海溝のごとき深い理由がある、というわけではなく、理由は単純である。とある好意を寄せていた女性に、つい最近フラれたのだ。

 これを聞いて人は、「あーなるほど。つまりはブログにその鬱々とした気持ちを綴ってゆこうっていうわけね。」と思われるかもしれないが、そう簡単に決めつけてもらっては困る。続きがあるのだ。

 その女性にフラれたのはもうひと月ちょっと前の話になるのであるが、そのあとも色々と考えることはあって、つい先ほどその人に電話をして、1時間ほど話を聞いてもらう機会があった。その時に一般的な話として、どういう人に対して魅力を感じるのかや、どうやったら自分のことを知ってもらえて、興味を持ってもらえるのかについて振り向いてもらえるのかということについて話した。

古代の祈祷師が末期患者に施すが如く術策を繰り返し、とうとう私は苦心惨憺の末に彼女*1から、どういう人に対して好意を感じるのかについて聞き出すことができた。

彼女は、ざっくりと言えばストイックで一緒にいて落ち着ける人が理想だということであった。むむむ、なんとも理想が高いが、面食いでなないというのが私にとっては唯一の救いであった。これを聞いてとりあえず思ったのは、一緒にいて落ち着いてもらえるかどうかは彼女の問題であるからともかくとして、努力に関してはひと一倍やっている自信があるぞということであった。また彼女は、現状を変えることのできる人。たとえばJRで学割を使って切符を買う時に、わざわざみどりの窓口に並ばなければならないというのが面倒だという話を持ち出し、もし現状に問題を感じるならば、例えばJRに就職してその部署で現状を変えようと努力できる人が良いと言っていた。聞きながら、「やっぱり賢いなぁ。」と思いつつも、「なーんだ、結局それっておれのことじゃないか。」*2という気がしてきたが、いずれにせよ、現在彼女にこの私が一体どんな人間であるのか、ということが全く伝わっていないというのはやはり問題である。

そこで私は、どうやったら彼女に私のことを知ってもらえるだろうかということについて考えた。①デートに誘う。いや、付き合っているわけではないし、そもそも私は彼女にはフラれたばかりである。この作戦は断られるだけである。②日々の会話の中で頑張る。いや、これも厳しいだろう。何しろ彼女はあとひと月ちょっとで修論を終えて、研究室にはほとんど来なくなってしまうのだ。また、人は手紙で気持ちをつづってみてはどうかと言うかもしれないが、実はこれはもう試しているのである。しかしながら、手紙というのは季節の移ろいやそこで感じた気持ちをつづるのには向いていても、自分自身がどんな人間であるのかということについて客観的な観点から論じるには向いていない。さらには、彼女はどうも文章や詩のセンスは無いらしい。電話の中で、「デートに誘うには、行きたいなって思ってもらえるように、自分が見せたい場所の写真を送ったらいいんじゃない?」と彼女にアドバイスされたが、これはすでに私が手紙のなかで実践してきた話である。どんなに一生懸命情緒あふれる文章を綴ったところで、彼女にその美しさが届かなかったところで意味がない。そういった意味で、手紙をつかって彼女を誘うのは不可能であるということを悟ることになった。手紙に写真を添えればいいんじゃないかと思われるかもしれないが、その情景をいかにうまく文章を以って伝えるかが本質的に重要なのである。それが写真では興ざめである*3

さてどうしたものかと、電話を切ったあとに遅めの夕飯*4を食べながら考えていると、ブログはどうかという考えが私の中に浮かんできた。実を言えば、ブログを開設することには、以前から興味があった。私のFacebookはすでにブログと化した長文が一般的であり。すでに内面世界の考察がメインの痛々しい投稿で埋め尽くされている。しかしながら、その内面を不特定多数の知人に向けて実名で発信するというのはやはり独りよがりなかなり恥ずかしいものであり、理解されないのはまだいいとして、ときには盛大に読み違えられて反感を買ったこともあった。そうした経験のなかで、こういった投稿というのは高々300名程度の私の苦悩など理解できぬ知人に向けてよりも、より深く共通した悩みを抱えた一度も会ったことのない人に向けて、ひっそりと書かれていたほうが良いのではないかという気がしてきていた。さらには、かなり考え抜いた末にこれは良いものが書けたなと思ったものに限って「いいね!」が一個か二個しかつかなかったり、どうでもいいただの写真に何十個も「いいね!」が付くことに対しても、かなり暗澹たる気持ちになっていた。そこで、どうでも良い投稿はFacebookに書いて、より本質的な根源的なことをブログに綴ってゆくのがよいのではないか、とも思ったのである*5

以上を踏まえたうえで、今回フラれた女性の話に戻る。これまでFacebookに綴っていた自己の内面や日々の何げないことについて、ブログに綴ってみてはどうだろうかと思ったのである。そのなかで、いまは全くと言ってよいほど私には興味のない彼女にこのブログの存在を知らせておいて、結局はほとんど読まれぬものであろうとも、私自身の内面とその葛藤について少しでも知ってもらうことが出来たら、それだけで私はとてもうれしく思うのだ。そういう意味で、これは彼女への恋文ということになろう。形の上では形式的な淡々とした文章になろうとも、そこには彼女への熱い想いがこもっているということを忘れられては困る。時には、出かけた先で見た美しい景色についても綴ってゆきたい。ぜひこの景色を彼女にも見てもらいたい、「良かったら今度ぜひ一緒に行きたいです。」といった彼女へのメッセージである。もちろん、最低限のマナーとして、彼女のプライバシーは最大限に気を配るつもりである。私自身はバレたところでこれまでFacebookに綴ってきたことに毛が生えた程度のことなのでどうにもならぬが、彼女がそれをもって不快感を感じることだけは絶対に避けなければならない。そういう意味で、彼女のことがこのブログ上に綴られることはほとんどないだろう。書くのは私の内面的な世界の話。私がどのような価値観をもち、どのように考え、行動するのか。彼女以外にも、私という変わった人間に興味をもつ同じく変わった人に知ってもらい、そのなかで私がこれまで経験してきたような悩みで現在同じように苦しんでいる人が、少しでも救われてくれればうれしく思う。

最後に、私という人間を象徴するうえで、大変重要な言葉を二つだけ紹介することにしよう。一つ目はゲーテの言葉、二つ目はトーマス・マンのトニオ・クレエゲルに登場する一節である。どちらの言葉も呪いのごとく私に付きまとい、ことあるごとに口ずさんでしまう大切な言葉である。

憧れを知るもののみ、わが悩みを知らめ。(Nur wer die Sehnsucht kennt Weiß, was ich leide!)

最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ。(Wer am meisten liebt, ist der Unterlegene und muß leiden.)

*1:恋人でもない人に彼女と書くと勘違いされるかと思い、上では“その女性”と書いてきたが、いい加減面倒くさくなってきたので、以下では簡単に“彼女”と書くことにする。それにしてもこの「見たまま編集」という機能は重すぎるぞ。これから広辞苑もびっくりの量の恋文を書こうというのに、たったのこれだけの文量でこの重さでは先が思いやられる。これを機に、HTMLも勉強しなければならないかもしれない。これは今後の投稿で触れようと思っている話なのであるが、少し先取りすると、人のことを好きになるということは、自身を向上させ、また、これまでの自分をも破壊させるだけの力があるものである。この話ついては追々詳細に触れようと思っているので、楽しみにしていただきたい。

*2:もちろん本人にそんなことは言っていない。

*3:手紙に絵を描けばいいじゃないかと思われるかもしれないが、私とてやはり日々の仕事があり、そうのんびりと絵の勉強まで手を広げている暇はない。大体、彼女は3月には卒業してしまうのだから、私にはのんびりと絵の勉強をしている余裕はないのだ!!

*4:今夜のおかずは焼鮭と里芋の煮物である。彼女に私の作ったご飯を食べてもらえたなら、どんなに幸せなことであろうか。私はいつもそんなことを考えながら、一人で夕飯を食べている。

*5:実を言うと、彼女とはまだFacebook上では友達にはなっていない。私はFacebookを始めたときから、私から友達申請は出さずに、私に興味を持って申請してくれた人は許可するという方針をとっている。この調子で行くと、彼女とは未来永劫Facebook上で友達にはなれなさそうであるが、それは仕方のない話である。